4日目 10月7日(土)
10月に入り、空気も漸く、夏から秋を感じさせる涼しさが出てきた気がする。
今日は藤沢から更に西へ、目標は小田原宿
小田原宿までの距離は藤沢宿から30km以上、今までの最長距離を想定して9:05、
前回ゴール地点とした藤沢本町駅付近から出発。
藤沢宿京見附跡を過ぎて、いざ平塚宿へ。
この街道歩きをしていて、道端の地蔵や祠が多い、昔の旅人等も見ていたのかなぁ、とか思いを馳せつつ歩を進める。
四ツ谷の一里塚、日本橋から13番目の一里塚(一里=約4km)という事は52kmくらい歩いたことになるのか・・・?と思って歩いていたらご親切に。
まぁ、そういう事だよね。
と納得間も有り、一里塚がこういう役割をしていたんだなと改めて感じる。
茅ヶ崎市外の手前の道端には、赤松の並木(だから赤松町?)。
この松は、いつ頃からこの東海道を見てるんだろう?
何度か車で通ったことがある、いつも混んでいる道、車道はノロノロ運転の車がずっと連なる信号もあちこちにある。
茅ヶ崎の一里塚を越えて、更に進むと大きな鳥居。「鶴嶺八幡宮大鳥居」と言うらしい。その先が馬入川(相模川) なぜ「馬入」は鎌倉殿の13人の時に何かで見た気が・・・。 頼朝が橋の渡り初めで落馬して乗っていた馬が川で溺死したとか、それ以来橋が不吉ということで、江戸の頃は渡し船だったらしい。
馬入橋を渡り平塚の街に入ってくると、そろそろお昼、ここまで休憩無しで3時間程歩きつづけたので、心地よい空腹。
やはり老舗の蕎麦屋を探したいところだけど、目に入ってきたのは
進むと、見附町というところで、
改めて読むと、ここまで歩いてきて宿場には江戸見附、京(上方)見附、本陣、問屋場、高札場 跡 があったけど、そう言えばそこは何の跡?
(関東地方整備局 横浜国道事務所のHPより抜粋)
見附:もともと見張りの番兵を置いた軍事施設で、江戸城では外堀に沿って多数の見附が配置されていました。赤坂見附、四谷見附といった地名はその名残です。
宿場の入り口にも見附がありました。江戸側にあるものを江戸見附、京側にあるのが上方見附と呼びます。
本陣、脇本陣:陣本陣は天皇のおつかいである勅使や、公家、大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設です。本陣だけに宿泊できないときに、予備にあてた宿舎が脇本陣です。
本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができました。
本陣は宿泊施設の中でもっとも権威のあるもので、今で言えば高級旅館といったところでしょうが、特定の身分の人だけが宿泊できたというのはあくまで原則であって、時として一般旅行者が宿泊することもありました。しかしこれも頻繁に宿泊させるというわけにはいかなかったようで、経営的には苦しかったようです。
問屋場:
とか有りましたが、全部ここに書いてあるので省略
続けよ。
平塚の上方見附を過ぎて、花水川の手前に、特徴のある山。
ここも昔の旅人が眺めた景色なんだろうなと思うと、安藤広重の絵
そしてその山を眺める場所に
でしょうね。
特徴的で絵に描きたくなる・・・。
更に少し行くと、国道1号線を外れて、少し細い道に。
う〜ん、さっき程再現性というか、ここがその場所感はないけど。
まぁ、多分この辺だったんでしょ。
進むと、そろそろ大磯宿、ここまで20km以上を歩き、これまでの最長おじ散歩に入っていて、足首やふくらはぎに少し疲れがでてきている。
小田原までまだ10km以上・・・。行けるか?
とか考えながらあるいていると、いつの間にか大磯宿の上方見附跡を通過
更に進んでいくと、街道歩きには関係無いけど、「旧吉田茂邸」が左手に見えた。
ふと、気づくと目の前に同じ本を片手に、やや足を引きづりながらもリュックを背に歩く年配の先輩爺がいた。
同じく京都を目指しているのか?今日はどこまで行くのか?気になったが、自分も知らん人にこういうところで話しかけられたくないなと思って自重。
結構、街道歩きしてる初老(大半は男性)が多い。すなわち、皆、おじ散歩か爺散歩。
と言っている間に、足がそろそろ悲鳴を上げたので、小田原宿入りを断念して、今日のところはJR二宮駅付近で一旦ゴール
藤沢宿ー13.4kmー平塚宿ー4.0kmー大磯宿ー4.8kmー(二宮)小田原宿
歩行距離🚶22.2km
次回、箱根越えの手前で箱根湯本あたりを目指します。